死に向かって生きるということ
最近、新聞の折り込み広告で、新しくできる介護施設の入居案内を頻繁に目にする
そこに明示される費用を目にするにつけ、死ぬにもこんなに金がかかるのか、て気が滅入ってしまう
入居一時金からして二百万、家賃が月十万円で、その他費用がさらに月数万円かかるのだ
貧乏人には目の眩む金額である
人にかかわらず命はみな、生まれたその瞬間から、死に向かって生きている。いつ、最後の瞬間が来るか、知る術は無い
基本的に、死の時期も選べない
だから人は、できる限り長く生きて、やりたい事を成し遂げ、悔い無く死にたいと考えてきた。そして実際、医療はそのように進化してきた。
だが近代、この医療によって、死にそうになっても、生かされてしまう事もある。それが、先に挙げたような介護ビジネスに発展する
これは、医療機関の善悪とか、関わる人々の意思の話ではなく、客観的な観点の意見であることを、あらかじめ断っておく。だって、誰だっていきなり死にたくないし、周囲の大切な人が死ぬなんて考えたくもない
だが現実として、脳死や障害、痴呆の問題なども考えるに、死を恐れて発展してきた医療技術によって、やりたい事を見失いながら、なお生きていざるを得ないという、本来の人の夢と掛け離れた時代が訪れているのではないか、と思うのである
そうでありながら、方や生きたくても生きられない世界が、まだ地球にはたくさんある
死ぬための生がビジネスとして成立する世界が、夢を極めた故に傲慢かつ贅沢なのか、今を生き抜くために、あらゆることを許容せざるを得ない世界が残酷でありながら、本来の命の姿なのか
それに明快な解答ができる者は、それこそ神か悪魔でしかないだろう
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